第4回戦いに敗れて~その後の有岡城~

更新日:2023年01月06日

戦いに敗れた荒木村重と有岡城は、その後どのようになったのか。第4回目は村重のその後、有岡城のその後を通して、伊丹の歴史・文化財をちょっと学びましょう。

荒木村重はその後どうなったのか?

村重は、一族や家臣たちが処刑された後も尼崎城・花熊城で戦い続けますが、天正8年(1580)7月には花熊城も落城し、毛利軍の撤退とともに西へ逃れました。


しかし、有岡城落城後から4年後の天正11年(1583)、村重が再び歴史の表舞台に登場します。
天正11年の茶会記にその名が見られます。茶会記とは、茶会の日時・場所・道具立て・懐石膳の献立、参加者の名前などを記録したものです。どうやら、村重は剃髪して道薫と号して、茶の湯をもって信長の死後、秀吉仕えたようです。

同じく天正11年に黒田官兵衛から道薫へ宛てた書状が見つかっています。
黒田官兵衛とは、村重が突如謀叛を起した際に、有岡城に赴いた使者でもあり、その後秀吉の参謀として活躍していました。書状からは、道薫が黒田官兵衛と力を合わせて、秀吉に仕えていた様子が伝わってきます。

その後、道薫は天正14年(1586)堺で病死したといわれています。

荒木村重

荒木村重(市立伊丹ミュージアム所蔵)

有岡城は落城後、天正8年(1580)8月に信長により摂津一国は池田恒興(つねおき)父子に与えられ、城名が再び「伊丹城」に戻されました。
新しい城主として恒興の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しましたが、本能寺の変後の天正11年(1583)に之助も美濃国岐阜へ転封となり、伊丹城は廃城となりました。
絵図資料から、江戸時代になると、主郭部は「古城(こじょう)」と記されており、江戸時代後期から主郭部内に人家が建ち始めたようです。

今、有岡城はどうなっているの?

明治に入ると、伊丹に鉄道が敷かれました。阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)です。

この阪鶴鉄道敷設の際に、主郭部の東側を大きく失っていましました。
昭和49年(1974)には国鉄福知山線の複線電化に伴う工事で、残っていた主郭部西側も消滅することとなり、昭和50年初めて主郭部の発掘調査が始まりました。

発掘調査では、石垣や礎石建物跡や井戸跡、主郭堀などが良好な状態で発見されたため、事業計画は再検討されることとなり、保存と整備活用を図るため、昭和54年国の史跡(昭和63年に追加指定)に指定されました。現在JR伊丹駅西側に「有岡城跡史跡公園」として整備されています。

有岡城跡主郭部

現在の有岡城跡主郭部

おまけ~今も有岡城が?!~(準備中)

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