第1回伊丹市内にお城があった?!

更新日:2023年01月06日

皆さん、戦国時代のお城で知っているお城はいくつありますか?

世界遺産で国宝の姫路城や国の重要文化財の大阪城など行ったことのあるお城の名前を挙げられる方も多いと思いますが、伊丹にも戦国時代にお城があったことは知っていますか。

今のJR伊丹駅周辺にお城は築かれていました。お城の名前は、有岡城といいます。この有岡城はなんと国に指定された史跡(文化財)です。第1回目は有岡城を通して、伊丹の歴史・文化財をちょっと学んでみませんか。

そもそも有岡城の城主って誰?

有岡城の城主は荒木村重で、織田信長に摂津の支配を任された「摂津三守護(せっつさんしゅご)」の一人、池田正勝(まさかつ)の元家臣でした。

池田氏の家臣のなかから次第に力をつけて頭角を現した村重は、池田氏からではなく、信長から直接命令を受けるようになりました。そして、信長の命令で和田氏、また自分の主であった池田氏、最後に今の伊丹市域を中心に鎌倉時代後期から活躍していた伊丹氏ら「摂津三守護」の3氏を次々に討ち破りました。

村重は、それまで居城としていた池田城から、伊丹氏の居城であった伊丹城に移り、新しい城主となりました。

荒木村重についての資料

荒木村重(市立伊丹ミュージアム所蔵)

村重、伊丹城を改名して大改造!

村重は伊丹城に入城すると、伊丹城を「有岡(ありおか)城」と改名します。

そして、城の大規模な改造に着手しました。この村重が行った大改造によってできたのが、「惣構(そうがまえ)」です。「惣構」とは、城だけを防御するのではなく、侍町や町家までも堀と土塁で取り囲み、城郭全体を防御する構造のことです。

因みに、有岡城の惣構は、現存する惣構のなかでも最古級といわれています。

有岡城ってどんなお城だったの?

有岡城がどのような城であったのか、主郭部がどうなっていたのか、その姿が描かれた絵図はなく、今は全く分かっていません。

ですが、当時の人が書いた日記や文書などから、有岡城の様相を知ることはできます。そのなかで、有岡城を実際に見て記録を残した人の一人が、ポルトガル人でイエズス会の宣教師だったルイス・フロイスです。

ルイス・フロイスは、天正5年(1577)京から豊後(今の大分県)へ向かう途中、リニューアルした有岡城を見学しています。滞在時間は短かったようですが、イエズス会への報告書「異国叢書耶蘇会士日本通信」に、有岡城を「甚だ壮大にして見事なる城」と称賛した感想を書き記したことからも、有岡城が壮麗な城であったことを知ることができます。

有岡城ってわからないことばかりなの?

有岡城について分からないことは多いですが、城の構造については、これまでの400回以上の発掘調査によって、少しずつですが明らかになってきています。

有岡城跡惣構図

上の図が、有岡城の惣構の範囲を現在の地図に示したものです。

惣構の規模は南北1.7キロメートル、東西0.8キロメートルにも及びます。
有岡城の主郭部(城の中心部)は今のJR伊丹駅(伊丹1丁目地内他)のあたりで、主郭部を囲むかたちで、幅16~20メートル、深さ7メートルに及ぶ大規模な堀・主郭堀が造られました。
そして、防御の要所として、北に「岸の砦」、西に「上臈(じょうろう)塚砦」、南に「鵯(ひよどり)塚砦」を築きました。有岡城の東側は猪名川によって浸食された伊丹段丘の段丘崖という自然地形を利用しています。「上臈塚砦」・「鵯塚砦」は、その名前からも分かるように古墳を利用して造られた砦です。

また、有岡城内には家臣たちが暮らす侍町と町人たちが暮らす町屋が続いており、その侍町と町屋の境に「大溝筋(おおみぞすじ)」と呼ばれたものがあったことが近世の絵図資料に描かれていました。
発掘調査でその溝がみつかり、その溝の下から主郭堀に次ぐ規模の堀跡を発見しました。この大溝筋堀跡は幅6メートル、深さは3メートル近くあり、町屋を取り囲む形でみつかっていることから、町屋を防御するために造られた可能性が高いと考えられています。
村重は伊丹の地を最大限に活用して惣構を整備し、さらに城内にも堀を巡らし、有岡城の防御を固めていたことが分かっています。

人が入るほどの深さに彫られている発掘調査時の大溝筋堀跡の写真

発掘調査で発見された大溝筋堀跡の様子

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