第2回有岡城で織田信長と戦った?!

更新日:2023年01月06日

皆さん、戦国時代の武将といえば、織田信長の名前を挙げる人は少なくないのではないでしょうか?

その信長率いる織田軍と約1年もの間、村重が戦っていたことはご存じですか?第2回目は織田信長を通して、伊丹の歴史・文化財をちょっと学びましょう。

なぜ有岡城で信長と?!

有岡城の城主・荒木村重は信長に摂津一国の支配を任され、信長配下の武将として各地で戦い、信長の家臣のなかでも主力武将として活躍していました。

しかし、村重は信長の敵であった大坂本願寺と毛利氏と通じて、天正6年(1578)10月、突如信長に反旗を翻します。突然の村重の謀叛に一番驚いたのは信長です。信長は慌てて、明智光秀や羽柴秀吉など厚く信頼する家臣や黒田官兵衛を続々と有岡城の村重のもとに遣わし説得しますが、村重の決意が変わることはありませんでした。

荒木村重

荒木村重(市立伊丹ミュージアム所蔵)

信長軍の総攻撃でも有岡城落ちず!

信頼していた家臣の村重に突然裏切られた信長は、天正6年11月摂津に出馬し、村重ととともに謀叛を起した中川清秀(茨木城主、村重とは従兄弟)や高山右近(高槻城主、清秀と従兄弟)らに迫り、降伏させます。
12月には信長が摂津から小屋野(こやの、昆陽)へ陣を移動し、総攻撃を行いますが、有岡城は容易に落ちませんでした。信長は小屋野から古池田(池田市)に再び本陣を移し、信長軍の大軍によって有岡城を包囲したため、村重は有岡城に籠って戦うこととなりました。それから、約1年にわたる信長軍の総攻撃にも、村重は有岡城籠城戦で耐え抜きました。

村重は戦況打開のために有岡城脱出!

有岡城で必死に戦っていた村重ですが、約1年にわたり信長軍の総攻撃を受けた村重軍は徐々に疲弊していきます。そんな状況を打開するため、天正7年(1579)9月、村重は家臣5~6人を引き連れ、有岡城を脱出し、嫡男村次のいる尼崎城(尼崎市)に入ります。村重は海に面し、交通の要所であり、大坂本願寺にも近い尼崎城で、毛利軍などの援軍要請をしていたことが、村重の書状からわかっています。
しかし、城主不在の有岡城は、信長の主力武将であった滝川一益によって、城内から内通者が出て、天正7年10月上臈塚砦から信長軍が進入しました。侵入した信長軍は侍町に火をかけ、有岡城は「はだか城」となり、11月遂に有岡城は落城してしまいました。

有岡城跡惣構図

有岡城跡惣構図

落城後の有岡城の人々…

信長からの「尼崎城・花熊城(神戸市中央区)を明け渡せば、有岡城に残された人質を助ける」という説得にも村重は応じなかったため、天正7年12月に村重の妻子など荒木一族が京の六条河原で処刑され、家臣などは七松(尼崎市)で磔や生きたまま焼き殺されたとされています。
戦い続けた村重ですが、天正8年7月には花熊城も落城し、村重は毛利軍の撤退とともに西へ逃れました。

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