発掘調査現地説明会(平成15年~平成25年度分)

更新日:2023年03月15日

発掘調査をおこなうと、数々の遺構や遺物が発見されます。それらの調査成果を公開し、文化財に対する理解を深めていただくため、現地説明会を開きます。

説明会では実際の遺構の間近まで寄っていただき、発掘担当者が各時代の遺構について解説します。また、出土品も展示します。

近年おこなわれた主な発掘調査現地説明会

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第271次調査現地説明会平成15年8月9日

伊丹市伊丹4丁目、小西酒造の南蔵跡でおこなわれました。

  • 古墳時代中期(5世紀)の遺物

円筒埴輪の破片が多数みつかり、このあたりに古墳があったことがわかりました。

  • 戦国時代の遺構と遺物

有岡城ごろの掘立柱建物跡、その時代の美濃の天目碗、丹波焼擂鉢、備前焼などが出土しました。
このあたりの昔の地名が無足町であることから、足軽の住む家であったかもしれません。

  • 江戸時代前期の遺構と遺物

フイゴの羽口や熔けた鉄くず(スラグ)がみつかり、鍛冶屋関係の施設があったようです。

  • 江戸時代後期の遺構と遺物

石組みの溝を境に、2軒の酒蔵が建てられていました。礎石建物跡、大型のカマドと井戸、酒をしぼる施設(男柱遺構)などがみつかりました。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第276次調査現地説明会平成15年

伊丹市伊丹1丁目、江戸時代のメインストリート「本町通り」に面し、3軒の酒蔵が立ち並んでいたところです(現在のニトリのところ)。

  • 伊丹城・有岡城期の堀跡

江戸時代の大溝の下から巨大な堀が現れましたが、南側では大きく西側にそれていました。南側からみると、直角に東に折れ、その先でさらに直角に北に折れています。堀の規模は幅6.5メートル、深さは2.6メートルで、堀の内側に一段、テラス状の平坦な面がつくられていました。

  • 江戸時代の酒造遺構

酒造用の大型のカマド10ヵ所、酒をしぼった男柱遺構4ヵ所、井戸10基のほか、礎石建物3ヵ所がみつかりました。

  • 江戸時代の大溝

調査区を南北方向にのびる大溝は、大型の川原石で壁面を積み上げていますが、その下には丸太や大きな板材が基礎に使われています。石うすが使われているところもあります。この大溝の一部は現在のニトリ南側に復元して展示されています。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第309次調査現地説明会 平成18年11月12日

伊丹市伊丹3丁目、有岡城跡主郭部の南西側でおこなわれました。有岡城期の東西方向の堀跡が新たにみつかりました。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第316次調査現地説明会(第1回)

伊丹市伊丹2丁目地内で小西酒造株式会社万歳蔵跡から、有岡城時代の堀跡や江戸時代の酒蔵跡が発見されましたので、現地説明会を開催しました。

第316次調査地点は有岡城主郭部の西南約250mに位置し、有岡城期では町屋地区に属します。また、江戸時代は伊丹村のうち「中之町」・「鍛冶屋町」にあたります。本調査区には、小西酒造の酒蔵で江戸後期に建てられた「万歳蔵」がありました。

有岡城期

大溝筋(堀)とは異なる新しい堀を発見しました。

有岡城期の資料としては堀跡を1基検出しています。

堀跡SF01は、調査区中央を北壁から南壁まで南北方向に延びます。規模は長さ約33メートル以上、幅約6メートル、深さ約2メートル以上で、断面は逆台形状を呈します。出土遺物は備前焼甕、中国製青花皿、唐津焼皿などで、これらの出土状況から、有岡城落城後の16世紀末~17世紀初頭には埋め戻されていることがわかりました。この堀跡は、調査区北側に位置する第276次調査で検出した「大溝筋」と考えられる堀跡と主軸が異なるため、別の堀跡と考えられます。また、北側隣地の第317次調査では大溝筋より西側で2条の堀跡が検出されていますが、これらとも異なると考えられます。

今回検出したSF01は、絵図などの資料には記載されていない堀跡であり、さらに第317次調査の2条の堀とも同一でないことから、本調査地周辺には有岡城期の堀が複数存在することがわかりました。これは本調査地点が城を防御するうえで重要な地域であることを示す新たな発見となりました。

江戸時代

江戸時代(伊丹郷町期)に建てられた酒蔵と、その内部から酒造遺構の搾り場(しぼりば。槽場=ふなばともいう)と「かまど」を発見しました。

当調査地には、弘化4年(1847)の祈祷札がある「万歳蔵」が建っていました。

第1次面では、調査区全域で礎石を数基検出しました。礎石は数段の根石を積んでおり、大型建物に対応するためと考えられます。さらにこの建物内からは、搾り場の遺構(男柱と搾った酒を受ける垂壺の組み合せ)を6基検出し、この大型の礎石建物が酒蔵であったことがわかりました。

検出された6基の搾り場遺構は、すべて「1槽さし単基型」です。埋土から出土した遺物の年代から、これらの遺構は18世紀末~19世紀前半、19世紀中頃のものであると考えています。

これらより古い酒造遺構は検出されず、本調査地点には18世紀末以降に酒蔵が建てられたことがわかりました。

まとめ

今回の発掘調査では、万歳蔵より前の18世紀末から酒蔵があったことがわかりました。その酒蔵については、残念なことに古文書などでは該当する酒造家はわかっていません。今後の研究課題です。

今回検出した堀跡は、第317次調査で検出された2基の堀跡より規模が大きく、これらとは接続しないと考えられることから、町屋地区にも複数の堀を設けていたことになります。これは有岡城期の構造を知る上での好資料になると思われます。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第316次調査現地説明会(第2回)

第316次調査地点は有岡城主郭部の西約250メートルに位置し、有岡城期では町屋地区に属します。また、江戸時代は伊丹村のうち「中之町」・「鍛冶屋町」にあたります。本調査区には、小西酒造の酒蔵で江戸後期に建てられた「万歳蔵」がありました。

伊丹城・有岡城期

一石五輪塔や石仏を転用した溝や池状遺構を検出しました。

有岡城期の資料としては溝跡を1条検出しています。

溝跡(SD02004)は、調査区東側を北壁から南壁まで南北方向に延びます。規模は、長さ約31メートル以上、幅約1メートル、深さ約50センチメートル以上で、断面はU字状を呈します。出土遺物は、備前焼甕(かめ)、中国製青花皿(せいかざら)などで、これらの出土状況から、16世紀後半~16世紀末には埋め戻されていることがわかりました。また、溝の一部に、一石五輪塔や石仏を側石として転用していました。このような形状の溝は、西側の1区でも検出しました。また、周辺部でも数例あります。遺構の年代も共通して伊丹城・有岡城があった16世紀代であり、この時期の溝のあり方を考える上で重要な資料です。

池状遺構(SX03009)は、調査区中央より検出しました。平面形は方形を呈し、規模は一辺約4.3メートル、深さ約70センチメートルを測ります。遺構の底には細かい砂が堆積していました。出土遺物は、備前焼甕・擂鉢(すりばち)、土師質(はじしつ)土器羽釜(はがま)などで、これらの年代から16世紀後半に埋め戻されたと考えられます。

江戸時代

  • 搾り場遺構(槽場。ふなば)

江戸時代から近代の酒蔵(礎石建物)と、その内部にあった酒造遺構「搾り場」を発見しました。また、石積み溝(大溝)を発見しました。

当調査地には、弘化4年(1847年)の祈祷札がある「万歳蔵」が建っていました。

検出された6基の搾り場の形態は、素掘りが2基(搾り場01002・03001)、石積みが1基(搾り場01001)、コンクリート敷きが3基(搾り場01003~01005)です。

素掘りの搾り場の埋土より出土した遺物の年代から、17世紀末~18世紀初頭には本調査地点に酒蔵が建っていたことがわかりました。

  • 石積み溝(SD01001)

調査区中ほどから石積み溝を検出しました。第276次で検出した「大溝筋」の南続きと考えられます。この溝は南北に延び、長さ約3.1メートル、幅最大約4.5メートルで、深さは約1.8メートルにおよびます。当初は素掘り溝で、18世紀代に石積みに造り替えられます。石積み溝は第276次では溝の下層に堀が重なっていましたが、本地点では石積み溝の直下に堀跡はみられませんでした。

このことから、第276次で検出した堀跡は、本地点西側の1区より検出したSF01に続くと考えられ、17世紀中頃に堀を埋め戻した後、堀の東側に新たに溝を設けたことがわかりました。

また、石積み溝の埋土を採取し、花粉分析をおこないました。その結果、17世紀後半~19世紀代の層にイネとみられるイネ属型の花粉が大量に堆積していることがわかりました。イネの花粉は籾や玄米を水洗いした排水によってもたらされます。この石積み溝の両側より17世紀末以降に酒蔵関係の遺構が検出されていることから、検出したイネは酒蔵から流れ出たものと考えられます。

付.1区堀1(SF01)出土の動物・植物遺体

本調査地点の西側調査区にあたる1区では有岡城に関係する堀跡を検出しました。この堀跡は検出状況から16世紀末~17世紀前半に埋め戻されたことがわかっています。この堀跡からは沢山の遺物が出土し、そのなかに動物・植物遺体が含まれていることがわかりました。

  • 動物遺体

前回の報告ではスッポンやイノシシ・シカの骨が出土したことがわかっていましたが、土壌を洗浄したところ、タイ・ハモ・マグロなどの魚の骨が含まれていることがわかりました。

そのなかで、マグロは安土桃山時代から江戸時代初期の遺跡では出土例が少なく、特に16世紀末~17世紀前半と考えられる遺構からの出土例は畿内ではほかに大坂城跡があるのみです。
マグロは外洋に生息し、鮮度を保つのがむずかしい魚で、江戸後期になって醤油づけした「づけ」が食べられるようになりました。今回、安土桃山時代から江戸時代初期において、内陸部に位置する伊丹ですでに外洋魚を食べていたことがわかり、当時の食文化を考える上で貴重な成果となりました。

  • 植物遺体

堀の埋土から採取された植物遺体について、種の同定、花粉分析、珪藻分析をおこないました。

種はウメ・スモモ・アンズ・ウリ・ヒョウタン・ナス・ナツメ・ソバ・センダン・カヤなど43種類におよびます。このうち多く出土したのはモモ・センダンで、出土量から周辺に生えていたと考えられます。薬用になる種実が多いのも特徴でした。モモは果樹ですが、薬用としても食し、センダンの実は整腸・鎮痛薬などに使用されます。

また、花粉分析では、アブラナ科・イネ・アサ・アブラナ科・ネギ属・ソバ属・ナス科など59種類がありました。アブラナ科・イネなどの草本花粉が多く、これらが堀周辺の水田や畑で栽培されていたことがわかりました。

さらに、堀周辺にはマツ属・コナラ属・アカメガシワ・エノキ属(ムクノ)などの樹木が生え、堀の中にはハスが成育していたことも判明しました。また、珪藻分析でも一定の水量を必要とする淡水生種が多いため、これらから,堀には一定量の水が溜水していたと考えられます。

まとめ

今回の発掘調査では、万歳蔵より前の17世紀末から酒蔵があったことがわかりました。西側の1区ではこの時期の酒蔵関係遺構を検出していないので、17世紀末~18世紀初頭には調査区東側に酒蔵があったことがわかりました。その酒蔵については、残念なことに古文書などでは該当する酒造家はわかっていません。今後の研究課題です。

また、今回検出した大溝筋と考えられる溝跡は、北側の第276次調査(ニトリ)、南側の停車場線で検出された溝のように堀と重なり合う状況ではないことが判明しました。場所により土地利用の変遷が異なることがわかり、有岡城期・伊丹郷町期の都市構造を知る上での好資料になると思われます。

最後に、動物・植物遺体の分析結果は、これまで300次をこえる調査ではじめての試みでした。その結果、戦国時代から江戸時代初期に本地点周辺では水田・畑で多種類の植物を栽培し、食していることがわかりました。さらに、堀の周辺には松やセンダンなどの樹木が生え、堀の中にはハスが咲いているなど、この時期の伊丹の自然景観と食文化を知ることができました。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第317次調査現地説明会

伊丹2丁目地内、小西酒造千秋蔵があった地点で、有岡城期の堀跡や江戸時代の酒蔵跡などがみつかりましたので、現地説明会を開催しました。

おもな調査成果

  • 「大溝筋」とは異なる新たな堀を2条発見しました。

従来の調査で有岡城の侍町と町民の住む地区との間には「大溝筋堀跡」とよばれる巨大な堀が、産業道路に平行する形でほぼ南北方向に走っていました。しかし、今回の調査で検出した2条の堀、SF01とSF02は絵図などの資料ではわからなかった新たな堀です。

堀SF01は調査区中央を北壁から中ほどまで南北方向に延び、さらに西壁付近で南へ屈曲しています。長さ18メートル以上、幅約3メートル、深さ150センチメートルで、断面は逆台形状です。備前焼の甕、中国製の青花皿、唐津焼の皿、志野焼の鉢、肥前磁器の皿などが出土し、これらの年代から有岡城落城後の16世紀末から17世紀前半に埋め戻されたことがわかりました。「大溝筋堀跡」とは主軸が異なるので、別の堀跡のようです。

堀SF02は調査区北側を東西方向に延びています。規模は長さ8.5メートル以上、幅約4.3メートル、深さ約2.5メートルです。丹波焼の盤、唐津焼の皿、中国製青花皿など、16世紀後半から17世紀初頭までのものが出土しています。SF02はSF01によって切られているので、SF01より前に造られたと考えられます。また、伊丹城期の堀跡を再利用していることもわかりました。

 

  • 江戸時代(伊丹郷町期)に建てられた酒蔵と、その内部の酒造遺構である「搾り場」(江戸時代前期)を発見しました。

この調査地には、19世紀中頃に建てられた「千秋(せんしゅう)蔵」がありました。調査区の東壁より約6メートル付近で、土間と、これにともなう礎石を数基検出しました。礎石は数段の根石を積んでおり、大型建物に対応するものと考えられます。さらにこの建物内からは、搾り場遺構(男柱と絞った酒を受ける垂壺の組み合わせ)を4基検出し、この大型の礎石建物が酒蔵であったことがわかりました。

検出された4基の搾り場遺構は、18世紀末から19世紀前半のものと、19世紀前半~後半のものです。また、これらより古い17世紀後半頃の搾り場も検出しています。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第315次調査現地説明会平成22年8月28日開催

宮ノ前3丁目地内、花摘み園があった地点で、江戸時代の酒蔵跡や戦国時代の堀跡が発見されましたので、現地説明会を開催しました。

主な調査成果

  • 堀を発見しました

  SF01(堀跡)は、調査区南壁沿いを東西報告に延びています。規模は、長さ約30メートル以上、幅約3.7メートル、深さ約3メートルです。東西共に調査区外に延びています。断面はV字状を呈する「薬研堀(やげんぼり)」(注意1)とよばれる堀です。底には滞水した痕跡はなく、空堀だったと思われます。

           注意1:薬研堀とは…薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀。
                     薬研とは…主として漢方の薬種を細粉にする器具。形は舟形で中が深く窪む。

 今回検出したSF01は、絵図などの資料には記載されていない堀跡であり、伊丹城・有岡城の北西部における防御施設を考える上で新たな発見となりました。

 

  • 江戸時代(伊丹郷町期)に建てられた酒蔵とその内部から酒造遺構「釜場」を発見しました

   本調査地は、明治19年(1886)の「酒造場絵図面届書写」(伊丹酒造組合文書)から、池上茂兵衛蔵の酒蔵が建っていたころがわかっています。本酒蔵は伊丹の名酒の一つである「剣菱」の酒蔵と言われています。

   検出された酒造遺構は釜と井戸です。釜は半地下式で、燃焼室が2基一組の連基式です。構築材として煉瓦を使用していました。また、焚き口の壁は石積みで自然石を使用し、一部補修材として煉瓦が使われていました。埋土からは近代の陶磁器やガラス瓶類が出土し、20世紀初頭には廃絶したと考えられます。

   釜の南側からは井戸を検出しました。直径2メートルの素掘りで、井戸の周辺からは長辺60センチメートル、短辺30センチメートルの長方形の敷き石が並べられており、この井戸周辺は洗い場であったことが想定でき、「酒造場絵図面届書写」にも当位置が「洗い場」となっており、絵図面と発掘調査結果が一致しました。さらに絵図面では「洗い場」の北側は「釜場」と記しており、これについても同様の成果が得られました。

有岡城跡・伊丹郷町遺跡第352次調査現地説明会

中央3丁目地内、旧岡田家住宅南側で、伊丹城期の堀跡が発見されましたので、現地説明会を開催しました。

主な調査成果

堀01を発見しました

  堀01は、調査区中央を南北方向に延びています。規模は、長さ38メートル以上、幅約3メートル、深さ1.5メートル。土層断面の観察から東側より一揆に埋め戻されています。有岡城内で見つかる多くの堀は、侍町から発見され、その方向は有岡城期の町屋の町割に並行し、有岡城期に掘られた堀跡と考えられています。しかし、堀01は、この町割に並行しておらず、また、堀01の直上で、有岡城期と考える建物01を発見したことなどから、有岡城期以前の伊丹城期の堀と考えられます。

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