鴻池稲荷祠碑(いなりしひ)

更新日:2021年05月25日

鴻池の児童公園に立っています。ここは江戸時代の豪商として知られる鴻池家の発祥地とされています。

碑は,中国の古代貨幣「布貨(ふか)」の形をした砂岩製で,花崗岩製の亀趺(きふ 亀形の台石)の上に立てられています。上部の凸出部を篆額(てんがく)に見立て,右に「稲荷」,左に「祠碑」の文字を篆書(てんしょ)で刻んでいます。鴻池家の由来を記したこの本文は大坂の私塾懐徳堂(かいとくどう)の教授であった中井積徳(せきとく 履軒 りけん)の撰文と筆になります。製作年は碑文の内容から,天明4年(1784)から間もないころと考えられます。

平成3年に伊丹市の指定文化財(史跡)に指定しました。

鴻池稲荷祠碑の写真

鴻池家は戦国の武将山中鹿介(しかのすけ)の末裔(まつえい)といい,現在伊丹市域の鴻池で清酒の醸造に成功し,後に大坂に出て両替商などで財を築きました。東大阪市には鴻池家が開いた鴻池新田(しんでん)の会所が残り,国の重要文化財に指定されています。

碑文の大意

鴻池家は酒造によって財をなし,慶長5年(1600)から200年も続いている。その初代は幸元(ゆきもと)で山中鹿之介(正しくは鹿介)の子であると言われている。鴻池家は,はじめて清酒諸白(もろはく)を製造し,江戸まで出荷した。近隣の池田・伊丹・灘・西宮などでは鴻池家にあやかって酒造業を起こした者が数百軒もあった。

鴻池家の屋敷のうしろには大きな池があり,これを鴻池といった。これは村の名の由来となり,またその名前を大坂の店の屋号として用いた。

鴻池家が酒造業を始めた年,屋敷の裏に稲荷の祠をまつ

 

)って家内安全を願った。幸元の子どもらのうち大坂で分家した者は3家,そこからさらに9家が分かれた。大坂の鴻池家の富は莫大になっている。

宝暦13年(1763)秋の大風で稲荷の祠がこわれた。20年後,当主たちが集り,「先祖の遺徳を忘れてはいけない。祠を再建する費用はわずかであるが,一人だけが出せば,他の人は祖先の恩徳を忘れてしまう。皆で出し合おう」ということになった。天明4年に祠が復旧されたとき,それらの事情をすべて石に刻んで残そうということになった。幸元から数えて7代目の当主元長の子,元漸(もとやす)は自分(中井履軒)の弟子であったので,元漸の依頼によってこの銘文をつくった。

所在地など

伊丹市鴻池6丁目14番、児童公園内

交通

阪急伊丹駅前・JR伊丹駅前2番乗り場より市バス2系統桜ヶ丘経由荒牧バラ公園行き,または両駅4番乗り場より市バス5系統裁判所前経由JR中山寺行きで鴻池下車,北西へ約250メートル

所有者

鴻池合資会社

参考文献

  • 「鴻池稲荷祠碑」『伊丹の文化財』伊丹市教育委員会、平成7年
  • 柚木学「鴻池の稲荷社碑」『伊丹市史』第2巻、伊丹市、昭和44年
  • 藤井直正「鴻池稲荷祠碑」『地域研究いたみ』第23号、伊丹市立博物館、平成6年

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地図情報

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都市活力部まち資源室文化振興課(文化財担当)
〒664-8503伊丹市千僧1-1(市役所4階)
電話番号072-784-8090 ファクス072-784-8048

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