【有岡小学校区まちづくり協議会】有岡歴史企画「天野セミナー2」が開催されました
主催者の有岡小学校区まちづくり協議会より、有岡歴史企画「天野セミナー2」開催についてのレポートが届きました。
有岡歴史企画「天野セミナー2」開催しました!
令和7年2月23日(祝・日曜)有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、天理大学教授の天野忠幸さんに「村重と光秀ふたりはなぜ信長から離れたのか?」をテーマにおはなしいただきました。参加者は定員の倍の200名。

はじめに荒木村重研究会役員で村重子孫の西崎さんより、荒木村重研究会のブログを是非ご覧くださいと挨拶があり、その後天野先生が登壇され、天野セミナーが始まりました。
織田政権は急成長して部下によって滅びるという運命をたどった、普通は衰退期に離反者が出るのになぜ勢力拡大のいいときに信長から人がどんどん離れていったのか?との問いかけからスタート。

明智光秀、細川藤孝、荒木村重は姻戚関係を結び、「畿内衆」として、織田政権を支え活躍。現場で実力を発揮するにも関わらず、羽柴秀吉などの「尾張衆」が司令官になり、「畿内衆」はその尻拭いをさせられるバックアップ要員としての扱い。実力主義だったはずの信長が次第に身びいきになり、「尾張衆」を優遇、「畿内衆」は使い捨て、晩年は自分の子どもたちを最優先にするようになり、村重と光秀は面目を潰された。
その村重の不満を真っ先に見抜いたのは織田一族ではなくライバルの吉川元春・元長だった。そして村重の離反と挙兵。光秀は村重の説得に失敗し、信長に疑われないよう丹波攻めに奮戦、有岡城開城にも関わり自分の娘を助け出す。
その後、信長の四国政策の転換などにより追い詰められ本能寺の変へ。信長は部下の気持ちがわからなかった、失敗を繰り返したと、現代の会社に例えて、社長から会長になり現場で働く者の気持ちを汲み取ることが出来なくなっていったのではないかと話されました。
最後に村重と光秀の相違点について、村重は籠城、光秀は籠城せず襲撃したのはなぜかと。籠城するにはそこで暮らす百姓などの協力が不可欠で、村重は摂津の百姓に支持をされていたから籠城が出来た、村重はいい領主だったのではないかと締めくくられました。

前半50分、休憩挟んで後半50分、天野先生100分セミナー。いつものことながら、天野先生の軽快な語りに引き込まれ、歴史ロマンの世界に浸っているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。
主催者の有岡小学校区まちづくり協議会会長よりみなさまへの閉会の挨拶をもって本日の天野セミナーは終了。有岡城跡で450年前にタイムスリップして有岡城の歴史を楽しむ贅沢なひととき、とても素敵な会になりました。お越しくださったみなさま、スタッフのみなさま、そして天野先生、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
来年も2月(2月22日予定)に天野セミナー3を開催いたします。どうぞお楽しみに!

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更新日:2025年03月12日