現在の位置

俳人・上島鬼貫(うえしまおにつら)

鬼貫の肖像画

松尾芭蕉と並ぶ俳人で「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた上島鬼貫は、伊丹出身です。
鬼貫は1661年(万治4年)、伊丹の酒造家・上島宗次の三男として生まれました。
鬼貫の遠い祖先は武士の名家だったため、武士になりたいと熱望した鬼貫は、諸藩への短期間の武家奉公を繰り返します。
しかし鬼貫は、「誠のほかに俳諧なし」という言葉どおり、俳諧には真摯な態度を貫き、芭蕉と並ぶ評価を受けました。

俳諧の才能は早くから発揮

8歳で初めての句「こいこいといへど蛍がとんでゆく」を作り、13歳で松江維舟(いしゅう)の門に入り、16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになります。
池田宗旦(そうたん)が伊丹で開いた俳諧塾、也雲軒(やうんけん)にも学んで、伊丹風俳諧の若手俊英として活躍しました。

25歳で大阪へ

鬼貫はしだいに遊戯的・享楽的な伊丹風俳諧に疑問を抱き、25歳ごろ、大坂に出ます。
以後、鬼貫は主に大坂と近郊の福島に住み、一時、京へも移住しました。
時々、帰郷もしていて、元禄12年(1699)には伊丹の領主である近衛家から家来分にとりたてられます。
1724年(享保9年)3月、大坂で起きた大火災で自宅が焼けてしまい、その年の10月まで伊丹に疎開しました。
この時、鵯塚(ひよどりづか)で吟じた句が次の句です。

「鵯や世の囀りも石の花」

「にょっぽりと秋の空なる富士の山」

元禄13年1月には長男の永太郎を亡くし「土に埋て子の咲花もある事か」と嘆いた伊丹の墨染寺(ぼくせんじ)の墓には、後に鬼貫も分骨されて、父子は今も一緒に眠っています。
同寺には、江戸へ下る鬼貫に「富士の姿を詳しく知らせてほしい」と言いつつ、帰りを待たずに没した友人、鸞動(らんどう)の墓もあります。
この墓前で鬼貫が報告したのが代表句「にょっぽりと秋の空なる富士の山」です。

伊丹を詠んだ句

  • 月なくて昼ハ霞むや昆陽の池
  • 賎の女や袋あらひの水の色
  • 水無月や風に吹かれに故郷へ
  • 古城や茨(いばら)くろなるきりぎりす
  • 富士の雪我津の国の生れ也

など

鬼貫忌

旧暦8月2日。鬼貫は元文3年(1738)8月2日、大坂で没し、墓は大阪市天王寺区の鳳林寺(ほうりんじ)と伊丹市の墨染寺(ぼくせんじ)にあります。
明治36年、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が雑誌「ホトトギス」で、募集句の題を「鬼貫忌」として以後、秋の季語として定まりました。

昭和50年ごろから、伊丹俳句会が毎年、公民館で鬼貫忌をとり行なうようになり、句会と岡田利兵衞(柿衞)の講演会を実施。同氏が没して柿衞文庫が財団法人化されると、鬼貫忌の会場はそちらへ移り、平成3年からは正式に(財)柿衞文庫の主催するところとなりました。その内容は、講演会や句会小中学生、一般の俳句作品を対象にした俳句コンテスト「鬼貫賞」の表彰式などです。

柿衞文庫

お問い合わせ先
総合政策部空港・広報戦略室 広報課
〒664-8503 伊丹市千僧1-1 (市役所2階)
電話番号072-784-8010 ファクス072-784-8107

みなさまのご意見をお聞かせください

このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。