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学習交流会(平成15(2003)年度)

更新日 2007年11月05日

学習交流会は人権啓発推進委員が啓発リーダーとしての資質向上を図るための自主的な人権学習の場です。

活動のねらい

1.本市開催の啓発事業等への市民参加を促進するため、具体的な啓発方法を考える。

2.市民啓発推進に関わる体験談や意見交換を通して自己啓発を図り、人権問題の認識を深める。

活動記録(2003年度)

 
日時・会場
活動内容
第1回

9/17(水)10時00分~12時00分

総合教育センター多目的室

啓発推進委員として地域別人権啓発講座に携わって得た感想・意見・情報等をフリートークしよう。
第2回

10/15(水)10時00分~12時00分

総合教育センター多目的室

同和問題解決のための今日的課題について学習しよう。

ビデオ「同和問題これからの課題」を見て、今日的課題について学習

第3回 11/19(水)8時00分~17時00分

管外研修国立療養所「長島愛生園」見学

  • 園長さんの講話
  • キム・テグさんの話
  • 園内フィールドワーク等
第4回

1/21(水)10時00分~12時00分

総合教育センター多目的室

 講話:「男女共同参画社会をめざす行政計画等について」

伊丹市自治人権部同和・人権室男女共生社会推進担当主幹梅田華栄

第5回

2/18(水)10時00分~12時00分

総合教育センター多目的室

啓発推進委員2年目を終わるにあたって、活動を振り返り、感想・意見・情報交換等をフリートークしよう。

第3回管外研修国立療養所「長島愛生園」見学

フィールドワーク

小高い丘の頂上を目指して約3分、きれいに整備された上り道を歩き、萬霊山(霊廟)頂上に到着。ほぼ長島愛生園全景が眺望できる位置である。ここは、愛生園入所者および職員の物故者3,400余柱の霊を、宗教宗旨宗派に関係なく合祀している。全員が常備の線香を戴き、拝礼壇に手向けて合掌した。

九輪水炎の塔を戴く合祀塔の背面に回ると、納骨堂の入口正面に立つ。6センチ立方のスペースに納骨されている。緑青色に金縁の扉が重々しく締められている。入所者の遺骨を遺族が引き取りにくる例はほとんど皆無という。

なだらかな坂を下り、工事用の重機が作動している斜面に出る。そこは監房跡と聞く。入所規則違反者を懲らしめるための収容施設として使用されていた独房である。さらに、そこを過ぎると、入江の渚に面して島内周回道路に出る。入江の左前方端に石垣状の痕跡が見られる。かつてそこは、この島唯一の接岸地であった桟橋跡である。金氏もそこから上陸した。そこで下船者を待ちうけていたのは防疫服に身をくるめた看護婦であった。すぐ手元に接岸時の写真を着けたモニュメントが立っている。その写真から、防疫服とはサリン等毒物処理のときに着用する、頭から足先まで体全体を被覆する防護服のことであるのがわかる。

モニュメントから目を真後ろに移すと、蔦の葉におおわれた回春寮(収容所跡)がある。中には一人が入浴できる広さの小さな風呂があり、船を降りるとまずここへ来る。寮の前でゴザの上に所持品すべてを並べさせられた。園が禁止する物品(現金・米・カメラ等)は没収された。その他の所持品は着ていた衣服とともにホルマリン消毒されてから返された。全裸にされてクレゾール風呂に入れられ全身を消毒された。その後、体の検診、病歴、その他の入所手続きのため、1週間をここで過ごす。これが、入所者を迎える最初であった。昭和23年まで使用されたという。今は、すっかり朽ち果て、蜘蛛が一面に巣糸を張り巡らせている。入所者がどのように扱われたかを証かす無言の生き証人として、過酷な、暗い過去を訴えかけている。

講話

昭和27年入所以来、人生の3分の2をここで過ごす。

19日現在の入所者488名、平均年齢77歳、この島で死んでいく。だが、この病気で死ぬ人は一人もいない。死因は癌が最多である。日本国内の療養施設入所者で、この菌の保菌者は一人もいない。この病気は、日本書紀にも記録されている。メソポタミヤ古代エジプト等、外国には2000年以上昔の記録にこの病気が記されているほど歴史が古い。

7年前(平成8年)、らい予防法廃止。暗いマイナスイメージの強い「らい」という語は、今日では用いない。公式には「ハンセン病」を用いる。明治6年、ハンセン氏がらい菌を発見、感染してもほとんど発病しないと言われる。ただ、抵抗力の弱い体質の者が発病する。したがって、栄養状態の悪い時代に多く発病。現在では沖縄以南の地方で年間1~3名発病する程度。「らい菌による慢性感染症」と言うのが正式な言い方。

この菌は抹消神経を侵すのが特徴、感染して発病しても初めのうちはほとんど自覚症状がないに近い。指先や鼻先、あるいは耳たぶなどに痛さを感じない炎症がみられて初めてこの病気に気づくことになる。昔は感染力は弱いが、ひとたび発病すると治す薬がなかったため恐れられた。特効薬プロミンが開発されて飛躍的に治癒率が高まった。現在では注射でなく、副作用のない飲み薬多剤併用(DDS,レファビシン等)により、完全に治癒する病気となった。この病気は発展途上国に多く見られ、経済力に伴い栄養や公衆衛生等生活水準が向上すると急激に減少する。

明治40年にらい予防法が施行されたが、当初は絶対隔離主義ではなかった。当時、外国から日本に来たキリスト教の宣教師たちが、ハンセン病患者の多いのを見て療養所をつくり始めると同時に、日本政府の怠慢を非難した。その中で、らい予防法が制定されるに至った。

その後、この病気に対する誤った認識から、終身隔離政策を採るようになった。この政策の中で、園の所長はじめ多くの職員に警察官が充てられたという経緯がある。昭和40年代に幾度からい予防法廃止の法案が厚生省から提案されるが、委員会審議の中で、愛生園所長の反対意見から廃案になった。これが入所者に苛酷な療養生活を後々長く強いることになり、平成8年らい予防法廃止の時まで続くのである。

1998年7月30日にらい予防法違憲訴訟を熊本地裁に提訴した。過去の多くの廃案の例から半ば諦めの気持ちを持ちつつの訴訟であったが、違憲判決を勝ち取ることができた。元厚生省医務局長、元療養所長、元療養所医務管(医者)の三者が違憲証言をしてくれてこの判決になったと思う。

今は島外への行き来も自由にできる。今では年齢的に社会復帰は無理であるが、自分も40代のとき一度、社会復帰を目指して療養所から出て、会社勤めをしたことがある。だが、周囲からの差別の厳しさに耐え切れず、療養所に舞い戻ってきた。ここで人生を終えることになる。入所者全員がここで人生の終焉を迎えるのだ。

金泰九(キム・テグ)氏

1926年韓国生まれ。77歳。7歳のとき日本へ。大阪市立経済大学在学中の昭和27年発病、愛生園に強制入所。
現在、完全治癒、無菌者。発病当時の後遺症により右手指が不自由。

キム・テグさんより園内の説明を受ける。

キム・テグさん

収容桟橋(1939(昭和14)年9月建設)

収容桟橋

1931(昭和6)年3月、全生病院(現多摩全生園)から船で収容された患者以降はこの内白間(うちしらま)から上陸した。

収容される者の多くはお召し列車といわれる一般の乗客とは区別された患者専用車両で岡山駅まで運ばれ、さらに岡山駅から虫明港までは愛生園によって移送された。収容桟橋は家族との別離の場所であり、故郷を思ってはこの場所で涙した。また、この桟橋は患者専用で、職員等の利用する桟橋は別の桟橋だった。島内においても隔離は徹底されていた。(園内説明看板より)

収容所(回春寮)(1930(昭和5)年建設)

収容所(回春寮)

に隔離された入所者はまず収容所(昭和27年からは回春寮と呼ばれた)に入れられた。建物に収容される前、ゴザの上に所持品は全て並べさせられ、園が禁止した物品(現金・米・懐中電灯・カメラ等)は園に取り上げられた。そして、その他の所持品は着ていた衣服とともにホリマリン消毒されてから返品された。

現金は園の保管金として通帳に記載され、かわりに園内のみ使用ができる園内通用票と呼ばれるブリキの貨幣を渡された(逃走を防止するために昭和23年まで使用された)。

また、収容された入所者はクレゾールの入った消毒風呂に入れられ全身を消毒された。そして、体の検診、病歴、その他の入所手続きが済むまで約1週間をここで過ごした。

入所者の島での生活は、まずここから始まった。(園内説明看板より)

講話後、キム・テグさんを囲んで

集合写真

お問い合わせ先  
  • 部署名:教育委員会事務局人権教育室
  • 住所:〒664-8503 伊丹市千僧1-1 (市役所1階)
  • 電話:072-784-8113 ファックス:072-780-3519