修武館/伊丹市ホームページ
現在の位置

修武館について

天明6年(1786年)、酒造業で栄えていた伊丹の町を自衛するため、酒造家の小西朝巴(こにし ちょうは)さんが設立した私設道場が「修武館」の原型です。

 

明治維新で武家社会が消え、武道が廃止されたことを不安に思った小西家第11代当主の小西業茂(こにし ぎょうも)さんは、武道を失ってはいけないと考え、1885年(明治18年)に私設道場を「修武館」と名付け、初代館長になりました。

修武館について

修武館の歴史

修武館の誕生

徳川家康の時代の慶長17年(1612年)に、小西家が伊丹の地で清酒業を本業とするようになりました。

四考(しこう)(四代)霜巴(そうは)の頃には伊丹はずいぶん繁栄し、丹醸の町として有名になったばかりでなく、文化の町としても発展し、諸国の文化人たちがしきりに伊丹を訪れました。
四考 霜巴は、井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門たちと親交を結んでいたとされています。

伊丹とその近隣11村を合わせ、伊丹郷町と呼ばれていました。

元禄10年(1697年)に、伊丹郷町に「惣宿老制度(そうしゅくろうせいど)」が設けられ、四考(四代)霜巴が惣宿老の1人として役目を仰せつかって以来、代々つとめてきた小西家は、七考(しちこう)(七代)宗脩(むねなが)のとき、小西家の当主がただ1人で伊丹郷町の惣宿老をつとめるようになりました。

七考 宗脩は、政治や経済ばかりではなく丹醸で栄える伊丹郷町の治安も守らなければならないという想いから天明6年(1786年)、徳川家治の時代に、領主の近衛家に請願して私設の道場をこしらえ、浪人や剣術を習いたい者たちへ開放し、修行をおこなったとされています。

「地域社会の秩序安定に尽す」
伊丹郷町はお公家さまの領地で、武士の統治するところではない、とする伊丹郷町の自衛、これが修武館の始まりです。

 

練習風景

存続と改名

明治維新のとき、明治2年(1869年)に、小西家では、施設を一般公開するとともに、師範を招いてますます武道の発展に寄与しました。

明冶4年(1871)に、廃藩置県で武士が禄を離れ、武士の脱刀勝手たるべき事、という脱刀令もまた同じ年にありました。
 

明治6年(1873年)、直心影流(じきしんかげりゅう)の榊原鍵吉(さかきばら けんきち)が旧旗本有志の連名で「官許によって撃剣会(げっかんかい)を催したい」という願書を出ました。

 

脱刀随意の令下りしより剣道とみに衰へ、府下有名の剣客自然おちぶれし……

 

と、生活の困窮を訴えています。
修武館沿革にも当時のことがこう記されております。

 

明治維新後、武術の衰微により、多年に亘り武道を以て人々の師表に立ちたる人々が最も悲境にありし時、これらの人々を扶養援助すると共に、明治7年揚武会を起し、剣術のほか柔術、薙刀、槍術、杖術、水泳並びに漢学者を招いて一般子弟の教育を図った。

 

後に撃剣興行(げっけんこうぎょう)は、東京だけではなく、横浜、名古屋、大阪、九州(久留米)、四国(高知)などでも行なわれました。

明治9年(1876年)には、廃刀令がありました。

竹刀の音をたてるのさえ世にはばかるという時代になりました。
京都では、撃剣の稽古をする者は国事犯の嫌疑者だ、と知事が布告して、公然と剣術を禁止されています。

その頃、伊丹の小西家では、おおっぴらに各種武道の先生がたを招いて稽古をしていました。長屋には暮らしに困窮なさった先生がたが多く訪ねて来られ、短くても1ヶ月、それ以上に及ぶのが普通とされる期間逗留なさって稽古されました。

明治18年(1885年)、この頃当主は、十一考(じゅういちこう)(十一代)新右衞門業茂(しんえもんぎょうも)です。武道奨励、学問芸能の奨励の文武両道は単に奨励するばかりではなく、自らもまた両道に堪能とされる中、揚武会(ようぶかい)の発足、長屋建造を見てもお分かりの通り、小西家代々の当主の中で、いちばん武道奨励に熱心だったとされます。

この揚武会を現在の「修武館」と改名したのも業茂です。修武館では自らが初代館長におさまっています。

修武館の歴史(2)

修武館を後世に残す

時を越え、昭和15年(1940年)。
十二考(じゅうにこう)(十二代)小西新右衞門業精(こにし しんえもんぎょうせい)の意思には修武館を財団法人に、というものがありました。

 

小西家代々の当主が武道をやるのであればこのままでもいいが、
テニスが好き野球がいい、という者もいずれはあらわれてこよう、
そうなっては修武館の存続があやうい……
だから今の内に、財団法人にしておこう

 

このことからも業精がいかに武道と修武館を愛していたか、をよく物語っています。

業精の想い、財団法人化は、昭和17年(1942年)に正式に認定されました。
そこで大阪府警の剣道師範をなさっていた越川秀之介(こしかわ ひでのすけ)先生を修武館の師範にお招きしています。

しかし時が重なるこの頃、日本は太平洋戦争に突入しており、次第に戦局が逼迫し、この伊丹の地も空襲のおそれが出てきました。

大きな構えの屋敷は一度空襲にあって焼夷弾でも浴びたら延焼をふせぎようがないといった疎開の意味から、昭和19年(1944年)古い道場は取り壊しとなりました。
まもなく終戦を迎えるも武道には不遇の時代になりましたが、昭和25年(1950年)11月に修武館を再建しました。

剣道は一般では再開されていない頃。
「戦後、最初の道場再建だった」と周りの声を伝えられております。
この時、200年に及ぶ修武館の伝統を絶やすことなく引き継ぐことができ、また、今日も維持していることを誇りにしています。

参考文献

〈聞き書き剣道史〉伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話
故 小西 静子 (全日本なぎなた連盟会長) 談
構成/ 石神 卓馬(いしがみ たくま)
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/budou/kendou/kikigaki_01.html
(2011年05月09日アクセス)

【関連文献】
白雪の明治・大正・昭和 第10章 「生活即武道(せいかつそくぶどう)」を実践に移す
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS10.html