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近世

荒木村重と有岡城

荒木村重は、池田城にいた池田氏の家臣でしたが、のちに織田信長に仕えて信頼を得ました。天正2年(1574年)には、伊丹氏にかわって伊丹城に入城して有岡城と改名し、摂津国の支配を任されました。村重によって改修された有岡城は、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスに「甚だ壮大にして見事なる城」と讃えられたほどでした。しかし、村重は同6年に突如信長に反乱を起こしました。信長の大軍に包囲された有岡城は10ヵ月間もちこたえましたが、翌年落城し、江戸時代には廃城となりました。

近年の発掘調査や古絵図の分析などにより、有岡城は城下町を堀や土塁で囲んで一体化した「惣構え」とよばれる形式の城であったことが実証されました。城跡からは、城内の生活をしのばせる茶釜や甕・碗・すり鉢などが多数出土しています。なかでも中国から輸入された青磁・白磁・染付の碗や皿などは、村重の権勢を物語るものです。

伊丹郷町

江戸時代の伊丹は約40カ村に分かれていましたが、そのうち有岡城の城下町だった伊丹村から植松村までの南北に連なる15カ村は、一続きの「伊丹郷町」となり、その大半を都の公家の筆頭に位置する近衛家が支配しました。

伊丹市域の鴻池に「清酒発祥の地」という伝承がありますが、伊丹郷町では酒造業が栄え、井原西鶴の『西鶴織留』に「軒をならべて今の繁盛」と記されるほどになりました。伊丹で造られた酒は樽廻船で江戸に送られ、その味の良さから「伊丹諸白」「丹醸」などと呼ばれて人気があり、将軍の食卓にものぼりました。

常設展では酒造業を中心に商工業の中心地として栄えた伊丹郷町の様子を、絵図や復原模型などで紹介しています。

寛文9年伊丹郷町絵図(右が北)

周辺の村と交通

このころ、伊丹郷町以外の村々では、稲作のほか綿・菜種などの商品作物が盛んに栽培されていました。

田畑が広がり、網の目のように用水路が走って人々の生活を支えていました。また、市域には西国街道のほか、たくさんの道が通り、人や物資が行き来していました。

当館では、そのころの村や街道の様子を絵図や古文書・道標などで紹介しています。

お問い合わせ先
教育委員会事務局生涯学習部 博物館
〒664-0898 伊丹市千僧1-1-1
電話番号072-783-0582 ファクス072-784-8109

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